青き理性に・吾妻中学校歌

青き理性に・吾妻中学校歌 (作詞作曲:小澤俊夫

 

水平線を目指し帆を膨らませたこころは
近づいてはいつも離れても
あきらめることはないのだろう
愛という名のもとに生命育つこの星では
目に見える過去からの手紙が未来を照らし続けるのだろう
筑波嶺を遥か仰ぎ見る この純情は誰が知ろう
まだ青き理性に強く立つ きれいな名前をつけよう
ゆっくりと月が昇り夜がこの街に降りても
涙は土深く流れては 花をいつか咲かせるだろう
筑波嶺を遥か仰ぎ見るこの純情に胸を張ろう
まだ青き理性に強く立つ きれいな名前をつけよう
いつまでも覚えていよう

 

Olive小沢健二連載最終回(1997/12/18)

僕の友人で、二人姉妹なのに、生まれてから一度も親に、「お姉ちゃん」と言われたことがないという人がいる。二人とも「何々ちゃん」と名前を呼ばれるだけで、そうなると妹の方も、「お姉ちゃん」とは呼ばなくて、名前で呼び合うことになる。そう言えば彼女にはいわゆる「お姉さんらしい感じ」はない。「お姉さん」「お兄ちゃん」と呼ばれ続ける事は、その人の性格に影響するらしい。「兄」とか「弟」とか言うのは、人が持って生まれた資質ではなくて、社会的に規制された結果、というか周囲がそれを強要してるのである。


人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるってのは難しいから、面倒くさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。


懐かしいアズテック・カメラの、「ナイフ」という曲は、この世にはナイフがあって、物事を二つに分断しつづけている、ということを歌っている。
なにもない空間である世界を、ナイフで切った、上と呼ばれる部分にあるとされていること。寛容、優雅さ、等々。僕は二人兄弟の弟だが、兄、正しくは「淳ちゃん」を、僕は「お兄ちゃん」と呼んだりもしたので、その度に彼は、上の部分に属されていることであらねばならないと思ったかも。僕は「淳ちゃん」をそう呼びながら、下の部分に属すことになっている、快活さ、自由さ、等々を意識したかも。えー、全く無意識に。
二人でいれば、そのまったくくだらないナイフは、混然として美しい世界をどんどん切ってよこす。そして切り取られた世界は君の皿の上で、干からびて死んでしまって、勘定書きの上に、その名前だけが残るのだ。「優雅さ一つ。」そんな風に記されていいものは、この世の中には一つもない。カレーが、ゆでたニンジンと、いためたタマネギと、ご飯と、といった具合に出されるのと同じだ。それには何の意味もない。


二人といえば、フリッパーズ・ギターの話もしよう。これも今のカレーの例えと同じこと。ナイフで分けても何の意味もない。二人で何となく決まっていたのは、リードボーカルは小山田が歌う。歌詞とかタイトルは僕が作る。そのくらいのことで、あとは混然としていた。二人の共同の名前でクレジットしたが、作曲では、僕が一人でしたのは、「フレンズ・アゲイン」「恋とマシンガン」「カメラ!カメラ!カメラ!」「全ての言葉はさよなら」。小山田一人なのが「ヘアカット100」「偶然のナイフ・エッジ・カレス」「ビッグ・バッド・ビンゴ」「午前3時のオプ」「ラテンでレッツ・ラブ」。あと「ラブ・トレイン」「パパ・ボーイ」ってのもあった。他の曲は全部二人で何日も一緒に、どっちかの家で、夜中にコンビニに行ったりしながら、ラララーとか歌って作った。青くさい話とかしながら・・・。
で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。二人っていうくらい、微妙な関係はない。それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。そして二人でいる人達にすかさず貼られるレッテル「仲が悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合いはない。」以上。


二人、というのは微妙である。男同士の場合(女同士であったことがないから判らない)、あまり話が通じてしまうというのも考え物で、微妙な気恥ずかしさみたいなものが発生したりする。本当は親しい友達とは、大勢で居る時には意外に話さなかったりして、他人を反射して話をしたりして、二人でいると突然変に盛り上がったりして、そういうことは結構面白い。そういう友達が何人かいます。
男と女、となると、みんなご存知の微妙さで、ただの友達の女の子と、なぜか一緒のホテルの部屋に泊まる事になってしまった場合(状況はいくらでも考えうる)。恋人同士に、第三者がポンと言った一言で、恋愛がガラガラと崩壊するさま(この間ポンと言ってしまった)。
AとB二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重大な事を言う。Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。それが良かったり悪かったり。しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終わりである。恋愛や結婚が、三人でするものならば、又違うだろうに、三人一緒にベッドに入るのは、今の所極限られた人々だけである。


認識ってのは、普通あまりにも二者択一で、ほんとくだらない。それは磁石の針のように、こらえきれずにどちらかの極を向いてしまう。世界が半分づつ見えなくなって行くだけなのに・・・。マスメディアってのは、人間の脳の拡大図みたいなものだから、その中にいると、人間の癖がよく判る。


けどそういうこと全ては、どうでもいいことだ。「ラブリー」とか、「いちょう並木のセレナーデ」といった歌を歌う事に比べれば。これは、僕自信の話。


さて、それでは今度の「ある光」。「ある光」とは「心の中にある光」。
光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。


僕らの体はかつて星の一部だったと言う。それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。
そんな手紙をさっき書いたんだけど、そんな事を時には本当に思ったりします、僕は。(映画見て、その気になっていた。)

かわいらしい郊外電車の沿線には
楽しげに白い家々があつた
散歩を誘う小径があつた

降りもしない 乗りもしない
畠の中の駅
かわいらしい郊外電車の沿線には
しかし
養老院の煙突もみえた

雲の多い三月の空の下
電車は速力をおとす
一瞬の運命論を
僕は梅の匂いにおきかえた

かわいらしい郊外電車の沿線では
春以外は立入禁止である

 

 

谷川俊太郎『二十億光年の孤独』より

勝利者は常に諦めない

ここはヤンキースタジアム

6歳になるピートはお父さんと野球の観戦です。

9回裏、ヤンキースの攻撃。

ヤンキースは1対0で負けていますが、

ワンアウト、ランナー一塁。

一発出れば逆転のチャンスです。

ピート君は興奮して言います。


『ねぇ、パパ見てて!!次の打者がきっとホームランを打つよ!!』

そしてその結果は…。

見事ホームラン!!

さよならアーチです!!

ピート君は夢見心地で、

『ねぇパパ、僕もメジャーリーガーになれるかな?

ヤンキースタジアムのバッターボックスに…立てるかな?』


うつむきながらピート君は言います。

お父さんはにっこり微笑んで、


『あぁ、なれるさ。最後まで諦めなければな。』
 
それからピート君の猛練習が始まりました。


右腕に障害のあったピート君、

始めは仲間に入れてもらえませんでしたが、

一人もくもくと練習を続けました。

そして、ある日試合に出してもらえたピート君は、

八面六臂の大活躍!!

草野球チームで引っ張りだこになりました。

中学を卒業したピート君は、

プロを目指し、野球学校に入校します。


ピートは誰よりも真面目に練習しました。

誰よりも早く練習場に行き、

誰よりも遅く練習場を出ました。

守備も打撃も誰よりもうまいピート。

しかし…。

どこのDリーグもピートと契約してくれません。

アメリカはメジャーリーグを頂点とし、

AAA、AA、A、B、C、Dリーグとピラミッド型を構成しています。

でもピートは腐らず黙々と練習します。

その姿に感動した学校の先生は、

Dリーグの監督を集め、ピーそを見てもらいます。

そして、結果は……!!!

どこの監督も契約してくれませんでした。

ピートが利き腕に障害があったからです。

卒業したピートはアマチュア選手として活躍しました。

しかし、彼は夢を諦めきれず、

24歳の時、ニューヨークに行き入団テストを受けにいきました。

しかし取り合ってくれません。

十ドル紙幣を取り出し


【此れはぼくの全財産ですが、あなたに預けます。

 僕に入団テストを受けさせて下さい。もし、ぼくがチームの役に
 
 立てそうになかったら、返さなくて結構です】


といいいました。

オーナーは自信と必死な態度に負けて、

テストだけは受けさせることにしました。

その時ピートは…。

見事合格することが出来たのです!!

1942年晴れてマイナーリーグのプロになることなりました。

その年、ピートの打率は3割8分1厘で【打率トップ】でした。

Aリーグに昇格し、1944年には3割3分3厘の打率と、

ホームラン5本、ホームスチール10回を含む68盗塁という

輝かしい成績をあげ、【MVP】を獲得しました。

 

そして、その翌年…。

メジャーリーグのブラウンズと契約できたのです!!


打席に立つピート。

夢にまで見たメジャーリーグの打席です。

第一打席。

ピートは力いっぱいバットを振ります!!!

三振!!

第二打席。

ピートは渾身の力でバットを振りますが…。

またしても三振です。

第三打席。

ピートは狙い済ましてバットを振りますが…。

残念ながらバットとボールは離れ離れ。

三球三振です。


しかし、観客はピートが三振して打席を去っても、

席から立って拍手を止めませんでした。

ずっと続くかと思われるくらい、

拍手を止めませんでした。

三球三振なのにです。

なぜでしょうか?

それは…。

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ピート

そう、彼には右腕がなかったのです。

片腕のメジャーリーガー、ピート・グレイ。

彼は6歳のとき、

列車から転落するという事故で利き腕の右腕を失います。

絶望しかけるピート。

それを力強く励ます父親。

ピートは夢を諦めませんでした。

メジャーリーガーになるという夢を諦めませんでした。

そして、かれはとうとうその片腕で夢をつかんだのです。

最後にピートの言葉を書きます。

 

「私の子供の頃の夢は、ヤンキースタジアムで野球をすることでした。

そして、それを叶えられたことが、自分の人生にとって、もっとも素晴らしい出来事だったと思います。自分のような、体に障害をもつ者にとって、練習こそが全てでした。

でもたとえ練習しても自分にやってくるチャンスはわずかなものでした。

ある時こう言われたことがあります。

「両方の腕があっても、野球をするのが難しいのに、片腕で野球なんかできるわけがないだろう」

それでも諦めず、自分は常に夢に向かって練習したのです。

 

 A winner never quits.
勝利者は常に諦めない』

ピートグレイ

 

The Egg

The Egg
By: Andy Weir
Translation: Alex Onsager

君は家に帰っている途中で死んだ。
交通事故だった。ごく普通の交通事故だったが、致命的だった。君は妻と子供二人を残した。死ぬときに痛みはなかった。救急隊はがんばって救おうとしたが、無理だった。君の体はもうボロボロで、実際この方が良かった。
そして、君は私と出会った。


「いったい何が起こったんだ?」と君は訪ねた。「ここはどこ?」
「君は死んだんだよ」と私は答えた。ここで回りくどく言う必要はない。
「トラックが来てて…そしてそれが急に滑って…」
「そう。」
「し、死んじゃったのか?」
「 そう。でも気にする必要はない。皆いずれ死ぬのだから。」
君は回りを見た。何も無かった。ただ君と私の二人だけ。

「ここはどこなんだ?」と君は訪ねた。「ここは来世なのか?」
「まあ、そうだね」と私は答えた。
「あなたは、神?」
「そう。私は神。」
「俺の子供達…俺の妻…」
「彼らがどうした?」
「大丈夫なのか?」
「良いことを言うね。自分が死んだばかりだと言うのに一番の心配が家族だなんて。その心意気好きだよ。」


君は私を改めて見つめ直した。君にとって私は神には見えなかった。普通の男性か、もしくは普通の女性にしか見えなかった。何となく偉そうな気はしたが、それは神とかよりもどちらかというと小学校の先生に近かった。


「心配はいらない」と私は答えた。「彼らは大丈夫。子供達は君のことを完璧なお父さんとしてしか覚えない。憎く思えるほど一緒に時間をまだ過ごしていなかった からね。妻は表では泣くが、本当は密かにホッとしている。実を言うと君たちの関係は崩れかけていたからね。気休めになるかわからないが、彼女はホッとして いることに対してかなり罪悪感を感じている。」


「そう」と君は言った。「これからはどうなるんだ?天国とか地獄とかに行くのか?」
「どちらでもない。君は生まれ変わる。」
「そうか。じゃあヒンドゥー教が正しかったのか」
「人々の考えはすべてそれなりに正しいんだよ」と私は言った。「少し散歩をしよう」


我々は二人で虚空の中を歩き始めた。「どこへ行くんだい?」と君は聞いた。
「特にどこへも行かないよ。歩きながらしゃべるのも良いじゃないか」
「意味はあるのか?」と君が訪ねた。「どうせ生まれ変わったら空っぽなんだろう?ただの赤ん坊になって。だから今話しても、この命での経験や行動は関係じゃいないか」
「いや、そんなことない」と私は答えた。「君の中には今まで得た経験と知識がすべて残っている。ただ今は思え出せないだけ」


私 は立ち止まって君の方に手を載せた。「君の魂は、君が想像も出来ないほど壮大で美しくて、巨大なんだよ。人間の頭に反映しようとしても、ほんの一部しか収 まらない。コップの水の温度をはかるために指先を入れるようなもんだよ。自分の小さな部分をそこに入れて、取り出す時には体全体にその一部の経験が伝わっ ている。
「君はここ48年間ずっと人間の体の中だったから、意識を広げてその壮大さを感じ取る機会がなかったんだよ。しばらくここにいたら少しずつ思い出してくるけど。一つ一つの人生の間にそれをする必要はないけどね」


「じゃあ、俺はもう何回生まれ変わってるんだ?」
「そりゃもう、沢山さ。本当に沢山。そして色々な人生にね。次は確か、君が言う中世時代あたりかな?」
「え?ちょっとまってくれよ」と君は驚いて言った。「俺は過去に飛ばされるのか?」
「まあ、そう言われるとそうかもしれない。君の言う時間は君の世界でしか存在しないからね。私が元々いた場所では意味の無い話になってしまう。」
「元々いた場所?」
「そりゃあるさ」と説明した。

 

「私だってずっとここに居た訳ではない。別の場所から来た。そして私みたいな存在もほかにいる。君がその場所の話をもっと聞きたいことはわかるが、説明しても君には理解出来ない」
「そっか」と君は残念そうに言った。「でも待てよ。時間がばらばらで生まれ変わるのなら、自分と出会ったこともあるかもしれないじゃないか」


「そう。よくあることだよ。けどお互いの存在は自分の人生のことしか認識していないからそこで気づくことは無い」
「じゃあいったい何のために?」
「存在の意味か。ベタな質問だね」
「けど聞く必要は十分あると思う」と君は問い続けた。
私は君の目をじっと見つめた。「存在の意味、そしてこの世界を私が作り出した理由。それは君を成長させるため」
「人類のことか?人間に成長してほしいのか?」
「いや、君だけ。私はこの世界のすべてを君一人の為に作った。人生を重ねることによって君は成長し、さらに壮大で完璧な知性となっていく。」
「俺だけ?ほかの人々は?」
「ほかは居ない」と私は答えた。「この世界には、君と私の二人しか存在しない」
「でも、世界中の人々は…」
「すべて君だよ。全員君の生まれ変わり」
「待てよ。全人類が俺だと言いたいのか?」
「やっとわかってきたね」と私は微笑んだ。
「今まで生きて来た人間が皆俺?」
「そう、そして今後生まれてくる人々も全員ね」
「俺が徳川家康?」
「そして豊臣秀吉でもある」
「俺がヒトラー?」と君は動揺を隠せず聞いた。
「そして彼が殺した何百万人の人々」
「俺がイエス・キリスト?」
「そして彼に従う全ての人々でもある」


君は黙り込んだ。
「君が誰かを犠牲にするとき、それは自分を犠牲にすることになる」と私は続けた。
「君が人に親切をするとき、それは自分への親切となる。今まで経験された、そしてこれから全人類に経験されることとなるうれしい思い、悲しい思い、これを全て君が経験する」


君は長い間考え込んだ。
「どうして?」と君は訪ねた。「なぜこんなことをする?」
「それは、いつか君は私みたいになるから。君はそういう存在であるから。君は我々と一緒。君は私の息子なんだよ」


「そんな、」と君が信じられないように言った。「俺が神だということか?」
「いや、まだそうではない。君は胎児。まだ成長をしている途中。全人類全ての人生を経験した後、君は十分成長を積みやった生まれることが出来る」


「じゃあ、この世界って言うのは…」


「卵」と私は答えた。「さあ、次の人生を始める時間だ。」


そして私は君を見送った。

道元禅師はおっしゃっておるんや

坐禅をすれば善き人となる」
その善き人に なかなかなれん
人間は 名誉とか 地位とか  見栄とか 
我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ
欲は 克服するすべを覚えんといかん
それが坐禅
お釈迦様の教えというものは  
天があり 地があって その恵みを受けて
人間が その正しい真(まこと)を  実行していくという
大法則のもとに 生かされておる というこでございます
真は名前を変えたならば 真理ということになる
この忙しいときに 手を組み 足を組んで
ただむなしく坐っておるように思うけど
そうではなくて 大自然を真に表したものが
3分 5分 の坐禅 どうぞみなさん 
朝の 3分でも 5分でも よろしいから
まず第一に 正しい真の姿をもって
先祖さんに あいさつをして 
元旦のはじめに お願いしておきます
誠におめでとうございます どうぞよろしゅう
年をとったら しわが増えて ほくろができて
腰がかがむ これは真理の姿です
そういう負け惜しみを言っておるより しょうがない
もう たいがい百歳超えたら みな寝とる
もう寝込んだら最後 だめやから
昼は寝んことにしとる
何も考えない 妄想せんことや
いわゆる前後裁断や その時その時 一息一息
しかないんだ 何か考えたらもうそれは余分や
人間は 名誉とか 地位とか  見栄とか
我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ
欲は 克服するすべを覚えんといかん
それが坐禅
息と一つになる 欲の起こるすきがない
坐禅ということは まっすぐということや
まっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ
右にも傾かない 左にも傾かない
まっすぐということは 正直ということや
身心は一如(一つ)やから 体をまっすぐにしたら
心もまっすぐになっとる
人間はわがままが自由やと思っておる
ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)で
なければならない
道元禅師様の坐禅ということは
すべてがみな禅だ
禅というたら 何か殊更にあるように思っておる
そうではなくて そのものと一つになっていくことが
禅だから 歩いたら歩いた禅 しゃべったら
しゃべったで しゃべることが禅だ
スリッパを脱ぐのも 坐禅の姿や
スリッパをそろえるのが 当たり前のこっちゃ
例えばスリッパがいがんでおったら
ほうっておけないんだ
スリッパがいがんでおるということは 
自分がいがんでおるんだ
自分がいがんでおるから いがんだやつが
直せないんだよ
だから 物を置いても 
ちぐはぐに置くのと まっすぐに置くのと
すべて心が表れておるんだから
心がまっすぐであったら すべての物を 
まっすぐにする必要がある
修行をしておるんじゃなくて
当たり前のことをやっておるんや
それよりやることないんだ
11歳から坐禅をしておる
嫌々ながらやっておった はじめは
そんなことするより ほかにすることがある
と思っておった
坐禅するより ほかにすることが いくらでもある
と思っておったんや
老僧の 温かい死がいを 見たときに
「偉い人やったな」と思った
80にもなっておって 雲水と同じものを食べて
雲水と同じ1日を ――――
わたくしのない 生活をする
やっぱり日常の生活が手本やな
老僧の口だけでない 実行で示した
それが元や
できたら 老僧のような坊さんになりたい
だから 人間はまねをせないかん
学ぶということは まねをするというところから
出ておる
1日まねをしたら 1日のまねや
それで済んでしまったら
2日まねして それでまねせなんだら
それは2日のまね
ところが一生まねしておったら まねが
ほんまもんや
このごろの情勢を各報道機関によって見聞しますと
大衆に範を示さなければならない位置におる
位置をしめておる 地位にあるものが 範を犯したり
非常に醜い醜聞がちまたに満ちておりますが
教えというものは何がためにあると言えば
教えは実行するためにある
そのために高祖様(道元禅師様)は
黙って実行するところの只管打坐(坐禅)を
お勧めになった
どうぞ口で布教するだけでなくて
我が宗門は黙って実行するということに
中心を置いて下さい お願いしておきます
どうぞよろしゅう
その時はもう終りやなと思ったな
もう見えないのや しばらくしたらボーッと
天井の板が見えんのや それぐらい衰弱しておった
「ああもうこれこれ死んでもええわ」と
思ったな その時は えらくて(つらくて)
主治医やら看護婦さんに ようしかられた
「あんた大病人やのに そんな 坐禅したりしとったら
いけません」
そうすると 「はいはい」 言うて 寝間にはいりよった
看護婦や主治医がでていったら また坐禅した
正岡子規の 「病牀六尺」 という本には
「人間は いつ死んでもいい と思うのが
悟りだと思っておった ところが それは間違いやった
平気で 生きておること が悟りやった」と
分かるか
平気で生きておることは難しい
死ぬときが来たら 死んだらええんやし
平気で生きておれるときは
平気でいきておったらいいのや
今 あまり タバコ 吸わんのや
わたしもタバコやめるのに苦労した
1人でやめられんもんやから 3人組を組んで
もし隠れて吸ったら 50銭の罰金や
ところが 明くる日になって もう いっぺん吸うたら
同じやないかと言って 元に戻ってもうた
そこで今度は考えて
「わたくしが 今度 タバコを吸ったら わたしの命を
取ってください」
本尊さんに お誓いをした
命が惜しいもんやから 今度はやまった
それが30歳や だから 人間は命がけやったら
なんでもできるな と思った
どうぞみなさん 何かやめたいと思うことがあったら
命がけでやってください
どうぞ お茶 おあがり
みなさんは 門前でおられるから
優しい上に もう一つ優しい
来る人に優しい心を分けてください
いわゆる わたくしが 永平寺
わたしは 宮崎奕保やけども 
永平寺さん」言うたら
「はい」言うんや
永平寺とわしと一つや
自分ぐらい大事なものはない
自分ぐらい大事なものはええけども
人はどうでもええではなくて
環境もみな自分だから
わたしが永平寺やから
永平寺を大事にすることは
自分を大事にしておる

自然は立派やね
わたしは日記をつけておるけれども
何月何日に花が咲いた
何月何日に虫が鳴いた
ほとんど違わない 規則正しい
そういうのが 法だ
法にかなったのが 大自然
法にかなっておる
だから 自然の法則をまねて人間が暮らす
人間の欲望に従っては 迷いの世界だ
真理を黙って実行するというのが 大自然
誰に褒められるということも思わんし
これだけのことをしたら これだけの報酬が
もらえるということもない
時が来たならば ちゃんと花が咲き
そして黙って 褒められても 褒められんでも
すべきことをして 黙って去っていく
そういうのが 実行であり 教えであり 真理だ

フェアプレイ

サッカーってすごい。いや、なにがって、ひっぱりあいが。足ひっかけられてなくても大げさに転ぶし、大げさに痛がる。あれでファアルを取る事が当たり前のスポーツなんでしょうね。バスケットも、結構引っ張り合いがあるらしいし、水球なんて水中では格闘技的なとこもあるって聞きました。
そこで、野球ですけど、上記にあげたスポーツと比べれば野球は基本的に相手チームとの物理的な接触が少ないスポーツです。でも、僕が当時(もう27年ぐらい前)中学生の頃に入団したボーイズリーグでは、「デッドボールの当り方」「守備妨害のとり方」を教わりました。
フェアプレイとはなんでしょう。
野球で有名なのは、星陵対明徳義塾松井秀樹5打席連続敬遠。
これは、いまだに賛否のわかれるところでしょう。

2002年秋、全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝戦、水島工業と作陽の試合は
1対1で延長戦に入った。作陽のシュートが左ポストを直撃し、ゴール奥の支柱に
当って跳ね返ったところをGKがキャッチした。Vゴール方式を採用していたから
作陽の勝利で試合終了と思われた。しかし判定はノーゴール。試合はPK戦で水島
工業が勝利した。しかし、テレビ中継、夕方のニュースで再三このシーンが放送され、

誤審が明らかになった。勿論結果は変わらない。それがサッカーのルールだ。
物語はここから始まる。
水島のキャプテンは悩んだ。「果たして自分たちは出場していいのか?」
三年生部員11人を集め、出場するか辞退すべきか多数決に委ねた。
彼らは悩んだ。結果1票差で出場することになった。
監督は「俺たちはルールによって出場するんだ」と怒った。
物語は終わらない。
キャプテンは自主的に退部し、全国大会のピッチに立つことはなかった。