神様が人間に与えた寿命はもともと30年だった。

神様が人間に与えた寿命は、
もともと30年だった。

「犬」は、
40年の寿命を与えられたが、
「そんなに長く飼い主に仕えるのはいやだ」と、
半分の20年にしてもらった。

「ロバ」は、
50年もらったが、
「そんなに長く重荷を背負うのはいやだ」と
半分の25年にしてもらった。

「猿」は、
60年もらったが、
「そんなに老いては陽気にふるまえない」と
半分の30年にしてもらった。

人間だけが、余分に寿命をほしがり、

犬・ロバ・猿がいらないと言った
20+25+30年をもらい、
もとの30年に足して、寿命は100歳を越えた。

だけど、
犬・ロバ・猿からもらった「命」には、
犬・ロバ・猿が引き受けるはずだった「仕事」も
含まれていた。

だから人間は、
もともとの寿命だった30歳を過ぎるあたりから、
さまざまな苦労を背負うようになる。

30を過ぎるあたりから、人は、

犬のように家を守り、
ロバのように働き、
猿のように明るくふるまう、

長い長い人生‥‥、

(以上は、出典の広告の文章から、山田がかいつまんだり、
 表現を変えたりして再現した。)


「延命のツケ」ということを、
私はいま、思う。

すべてのことには寿命がある。

定められた寿命を越えて、
執着したり、しがみついたとき、
それにともなう重荷も深いと。

それでも、それがわかっていても、

「一日でも、1分でも、1秒でも、長く‥‥」

と願う、この気持ちはなんだろう?

そうだね。最近のボウイは、知らないね。三日前に新譜が出ていたとは…。

昔の事は、ほとんど省みないけど、明日の事なんか気にもしないで、みんなでボウイだ、クリムゾンだ何だかんだと騒いでた頃が、一番楽しかったかも。
その時その時の流れに乗って、此処まで生きてきたけど、ずっと自分は変わってないと思ってたけど、この瞬間に、振り返って観ると全然違う自分に為っていたんだなぁと思うよ。その時に求められている自分に成るために、自分をねじ曲げ、まがった自分に、折り合いをつけて、納得し、今いる世界に迎合して生きて来たんだなぁ。これが大人に成るってことですかね?そうじゃなきゃ、すでに死んでたか(笑)  まさしより

そもそもはそうじゃなかったのにそう思い込んでることからの逃げ道

ものすごくカッコイイ人は、カッコイイもカッコワルイも考えてないからカッコイイ。
分かったんだ。
今、目の前の出来事は、いろんなものと結びついた単なる結果なので、その現象には特に意味がないってことが。
本当だよ。
目に見えるものなんて今、たまたまそう見えているだけで、結びつきが変わるとゴロッと違って見えてしまうんだ。
問題なのはそう見えたり、そう感じたりすることを疑うこと。
"そう"とは、頭が勝手に考え出した幻想だっ
てことに気づくことなんだ。
だから生きていることも、死んじゃうことも、汚いとか、キレイとか思ってることもみんな脳の仕業。
自分が自分だなんて思ってることすらそうなんだから始末に負えない。
ものごころがつくまで思わなかったことなのに後になって思うことなんて信用しちゃダメってこと。
だって、そもそもなかったものに名前を与えただけだから。
言葉は便利だけどクセモノだってことさ。
見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、これもそう思い込んでるフシがある。
いや、脳に思い込まされたままになってるよ。
そもそもは何も無いのに、あると思ってるだけ。
思い込んでるだけならいいけど、それがなくなったからって悩んだり悲しんだりするのってヘンだろ。
すべては始まりがあり、終わりがあるだけのこと。
そのくり返しに過ぎないのに。
すべての事柄は何かと何かの関連の上だけに生じた現象なので、今だけを見て、見ただけを信じて生きることや、老けることや、病いや、死というものに囚われると、当然そこから苦しみが生まれるんだ。
仕方ない、諦める、どうにかなる。
どうにかなるとは、どうにもならないのと同じ意味だと知ることも重要だよ。
しかし、知識や何かを得ていると思い上がっても苦が生まれるのでそこにも注意。
それでは最後に"自分なくし"の魔法をかけてあげよう。
"ギャーテー ギャーテー ハラギャーテー ハラソーギャーテー ボジソワカ"
一回じゃダメだよ、何度も何度もくり返し唱えていると、そのことに集中する余り自分がなくなっていくもんさ。
夢中になれた時、そこには自分はいない。
もう一度、言うよ。"自分って一体、何なんだ?"
いくら考えても答えが出ないのは、そんなものは初めっからないからなんだよ。
ただ歩こうよ!意味を求めずに今を生きよう。
それが般若心経の伝えたいことなんだ。

超訳みうらじゅん

企業的な社会、セラピー的な社会

『社会と、現実と、何の関係もない言葉。』

例えば「対外援助」という言葉がありました。いわゆる「豊かな」国が、税金で、いわゆる「貧しい」国に「援助」する、「対外援助」のお金。本当は援助するのなら、貰ったお金を「貧しい」国がどう使おうと勝手なはずですが、そうではなくて、お金には「このお金を、こういう風に使いなさい」と、ただし書きがついていて、どうやらお金は、「豊かな」国の大きな企業が受けとることになっているのでした。つまり「豊かな」国のA国の人びとが払った税金が、A国を出ることもなく、同じA国に本社を持つ大きな企業の銀行口座に流れて行きます。お金を受けとった企業は、「貧しい」B国に、倉庫にゴミのように積んであった売れ残りの製品や買い手のつかない車を送りつけたり、B国の人たちが「建てないでくれ!」と涙を流して頼んでいる、大きなダムを建てて、村々をダムの底に沈めたりします。そんなことがなぜか、もう五十年以上、「対外援助」と呼ばれているのでした。



『社会の問題について人々が考え始めたら、こっそりとある枠組みを与えて、その中でだけ自由に活発に議論させて、本質には目が行かないように操作する』

たとえば、エコカーを作るのだって世界に1台車を増やすことに変わりないし、車を作るには資源が必要だし、タイヤから撒き散らされる微小なゴムのカスのことや、ひき殺される莫大な数の動物や、アスファルトで埋められてしまう地面のことは何も言わない。 人々が本当に自由に考えると、車ってもしかしたらそんなにいらないんじゃないかとか考え出すので、そういうことじゃなくて燃費のいい車に乗り換えることだけに考えを集中させるように誘導して、そして燃費のいい車をどんどん売る。人々は燃費のいい車を買うことでなんとなく問題の解決に貢献しているような気分になる。

ある社会問題を解決したいと思っても、好き勝手に行動されては困るのでNPOを作らせ「報告」を義務付ける。税金やキャッシュフローのことがあるので本当には自由に活動できないけれど、NPOのできる範囲で貢献することに満足を覚えて終わる。

ある人が社会生活に疲れてセラピーに行くと、セラピストはその人の内面的な問題をどうにかしようとする。本当は環境の方を変えなくちゃ本質的な解決にはならない。「周囲を変えることはできないから自分の考え方を変えましょう」ということを仄めかして丸め込む。嫌な暗い気分になったというのは「何かがおかしい」というシグナルなのに、それを無かったことにする。

人々が本質を考えないように、本質には関係がないのに関係があるように見せかけた出口の無い問題を与えて、その中でエネルギーを使わせる。本当はとても具体的な目の前にある問題なのに「大昔からの難しい宗教問題」とか「脳科学」とか「遺伝子に組み込まれた人間の性質」とか、なんかぼんやりとして解決のできないように見える問題に摩り替えて、現実の世界を変えようなんて気にさせないようにする。 革命が起きないように。

人々が本質を考えないように。



「企業的な社会、セラピー的な社会」小沢健二

自己責任

・・・・人をまわりの者や自然とつなげている「親切」を、人の心の中から追い出して行くために、灰色は、言葉をつくるのが上手い手下たちを使って、一つの言葉をつくり上げました。


それは、「自己責任」という言葉でした。
「自己責任」という言葉を心に叩きこまれると、人は苦しんでいる人を見かけても、「あそこに苦しんでいる人がいるが、あれは自己責任で、私が感じる必要はない苦しみだ」と思うようでした。


そして、「自己責任」という言葉は、苦しんでいる人の方にも、「自分の苦しみは自己責任で、他の人が感じとらないのは、当たり前なのだ」と思わせる効果があるよいうなのでした。


ということは、「自己責任」という考え方を人の心に叩きこむことによって、まるで除草剤を撒くように、雑草のように生えてくる「親切」という行いを、根絶やしにすることができるはずでした。


けれど、人は、長いあいだ、貧しい人や、死者や、動物たちの痛みを感じとって、親切をして、生きてきたのでした。


その親切を失って、人がどう生きていくかは、「自己責任」という言葉をつくった手下たちにもわかりませんでした。……


小沢健二「うさぎ!」より

Wailing wall(嘆きの壁)

崇高な老嬢がいる 海の彼方
それで僕は あの話を思いだした

夜明けから日が暮れるまで彼女の叫びが聞こえる
嘆きの壁の前に……

ひとりぼっちで悲しみに沈み、彼女は一日じゅう泣いている
そのうち誰かがやってきて、彼女を家に連れて帰る
誰も耳を貸さないし、気にも留めない
それでも毎日彼らはあそこにいるだろう

悲しみのあまりひざまずき
心臓がつぶれるかと思うほどに、ひたすら泣き濡れる
夜明けから日が暮れるまで彼らの叫びが聞こえる
嘆きの壁の前に……

ひとりぼっちで悲しみに沈み、彼らは一日じゅう泣いている
そのうち誰かがやってきて、彼等を家に連れて帰る
僕は耳を貸さないし、気にも留めない
それでも毎日僕はあそこにいるだろう

悲しみのあまりひざまずき
心臓がつぶれるかと思うほどに、ひたすら泣き濡れる
夜明けから日が暮れるまで僕の叫びが聞こえるだろう
嘆きの壁の前に……

 

 

There's a grand old maid
Across the sea
So the story was recalled to me
And from dawn 'til dark you hear her call
Down in front of the wailing wall

And she cries all day so sad and alone
'til someone comes along and leads her home
Nobody listens and nobody seems to care
But everyday you'll find them there and

Kneeling down
For sadness sake
Crying just as though their hearts would break
And from dawn 'til dark you hear them call
Down in front of the wailing wall

And they cry all day so sad and alone
'til someone comes along and leads them home
You know i don't listen and you know that i don't care
But everyday you'll find me there and

Kneeling down
For sadness sake
Crying just as though my heart would break
And from dawn 'til dark you'll hear me call
Down in front of the wailing wall

自己責任

・・・人をまわりの者や自然とつなげている「親切」を、人の心の中から追い出して行くために、灰色は、言葉をつくるのが上手い手下たちを使って、一つの言葉をつくり上げました。
それは、「自己責任」という言葉でした。
「自己責任」という言葉を心に叩きこまれると、人は苦しんでいる人を見かけても、「あそこに苦しんでいる人がいるが、あれは自己責任で、私が感じる必要はない苦しみだ」と思うようでした。
そして、「自己責任」という言葉は、苦しんでいる人の方にも、「自分の苦しみは自己責任で、他の人が感じとらないのは、当たり前なのだ」と思わせる効果があるよいうなのでした。
ということは、「自己責任」という考え方を人の心に叩きこむことによって、まるで除草剤を撒くように、雑草のように生えてくる「親切」という行いを、根絶やしにすることができるはずでした。
けれど、人は、長いあいだ、貧しい人や、死者や、動物たちの痛みを感じとって、親切をして、生きてきたのでした。
その親切を失って、人がどう生きていくかは、「自己責任」という言葉をつくった手下たちにもわかりませんでした。……
小沢健二「うさぎ!」よりf:id:ufoufoufo51:20170130174521j:image